罪の意識
有名な本にドストエフスキーの『罪と罰』がありますが、この話は。
読んだことのある人は多いと思います。要するに、非凡なる才能を持った自分は、人殺しをしても一切の罪の意識を感じることは無いと言う信念から…
いや、社会的な影響を持たないものは死んでもいいとさえ思っているそ傲岸不遜な言動態度こそが、この主人公の最もの特徴と言っていいと思う。
その傲岸不遜さは留まる事を知らなかったが、ラスト10ページぐらいで激動が走ります。
まあそれは置いておいて、気になるかたは読んでください。1000ページぐらいありますが…
さて、その題となってる罪と罰ですが、これについて詳しく書き出すと、すごく長くなるし、おそらく解釈も分かれるだろうと思うので、僕がただ単に感じたことを書こうと思います。
僕は、罪を考えるうえで『罪の意識』という言葉が、とても重要なキーワードになると思っています。
『罪の意識』が人を変えるのです。東野圭吾の「手紙」しかり、罪と向き合う事により、初めて人としての一歩を踏み出すことができる。
それまでは、『大義』を掲げる傲岸な存在でしかないと思います。
とはいえ、どれだけ屈強な人間でも、『罪の意識』から逃れる事はできないだろうと思います。
気が付いた瞬間に苛まれるのです。
罪を背負った人間は弱い。たとえ、それが、他の人から見て、大したことでは無かったにせよ『罪の意識』はそれだけで罰に値するぐらいの重さを持っている。
犯した罪の重さに関係無く『罪の意識』は人の心を強烈に傷つける。
何もせずとも傷つけるが…
周りの人間は、『罪の意識』を認識できない。
彼らからしたら『犯罪者』でしかない。
例えば、小学生が、イタズラとも取れる悪い事をして、本当に悪いと思って『ごめんなさい』と謝ると、赦そうという気になりますが、中に、謝ったと言う行為に『上下関係』と勘違いする奴がいたりします。
実はこれこそが、人を捻じ曲げる野だろうとは思いますが…
悪い事をした小学生は罪の意識を持って謝罪する。しかしそこに上下関係があると勘違いした奴は、彼を「非人道人」であると非難するようになります。
悪い事をしたことは事実だから、彼は『罪の意識』の中耐えるしかありません、つまり、弱いものに鞭打つ行為をそれと気づかずにやっているのです。
なぜなら彼がどれほど『罪の意識』を持っているかなど、そいつには知る由もないからです。
これが大きくなったのが社会です。
一度社会的な罪を犯した人間は、どれほどにそれを持っていようとも、他の人から見たら犯罪者です。
悔い改め、二度とそんな事はないと思えど遠ざけてしまいます。
どれだけ『罪の意識』を持ってるか、再犯率がどれくらいか。など分かりませんからね。
近づいたらやられるかもしれない。
だから遠くから石を投げつける。犯罪者だから、もっとひどい事をしているんだから、酷い事をした人間なんだから。
これぐらいしても問題ない。
と、考える人は多いと思う。僕だって、隣に越してくるとなったらそう考えるかもしれない。
自分にとって害になりそうなものは排除したいと思うのは人間の性だろうと思います。
どうすればいいのだろう。
罪の意識は目に見えるものではない、出所してきて、元犯罪者だったとして、その人物を見極めれる程にコミュニケーションを持つことができるんだろうか。
そんな手段が存在するのだろうか。
彼らにとっては、気兼ねなく居場所のあるコミュニティーなど、存在しなくなるし、人によっては自らそういうところに加わらない人だっている。
社会の片隅でひっそりと暮らす人もいる。実はそれこそが『罪の意識』の表れだったりするのだろうけど…
できる事なら、犯罪者とか関係無く、罪の意識を持つ人には、できるだけ鞭うつようなことだけはしないでおこうと思います。
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