狼少年の話…
狼少年の話は、皆さんも聞いた事があると思うのですが…
嘘つきの羊飼いの少年が「狼が来たぞ~!!」と嘘をついて、村の人達を驚かせていたけど、ある日、実際に狼が現れ同じように村人たちに助けを求めたが、誰もそれを真実だと思うものはおらず、少年も羊も食べられてしまった。
という話だったと思うのですが…
少年だった頃、この話を聞いて、怖いと思いました。生きて行くうえで嘘はついてしまうだろうけど、周りに迷惑を掛けないようにだけはしなくては…
とその時に思ったものです。
とはいえ、今日はそれを書こうとしたわけでは無くて…
この話、イソップ童話だったと思うのですが、要するに『嘘をつくと狼少年のように誰にも信じてもらえなくなるよ』というのを子供に教訓づける話だと思うのですが…
本当に気にしなくてはいけないのは、実は少年の言葉を嘘か本当かを見抜けなかった村の人たちの方ではないのか?
と昨今思うようになりました。
人間は生きて行くうえで嘘をつく。
それはもう絶対です。どんな素晴らしい人間でも嘘をつかない人はいない。
それは、大人とか子供とかは関係無く、社会の渡世術の一つであるからです。但し、大きすぎる、身に余る嘘は自身を滅ぼすことになるので、その力加減ができるようになる必要があります。
実力のある人間は嘘をつく必要自体もないし、結果として真実になった嘘は真実でしかない。それよりもっと、そこにいるもの全員が納得して信用させることができたのであればそれはもう真実と言ってもいい。
まあ嘘の定義の話をしたら尽きないので、これはこの辺にしておいて…
狼少年の嘘に、村の大人たちは、初めの方は敏感に反応し、警戒し、審議の確認を行います。そして彼の言葉が嘘である事に安堵し、一方で怒りを覚えました。が、それが二度も三度も続くことで、
村人たちは、「狼が来る」という情報の真偽が偏り、『おそらく嘘だろう』と思い込むようになってしまったのです。
そして、実際に情報の真偽を確かめる事無く今回も嘘だろうと決めつけてしまい、村の若者の命と家畜を失う事になったのです。
少年は、その未熟さ故に、大人たちの狼狽する姿をみて楽しんでしまうという、曲がった喜びを得てしまっていた。
彼をきっちりと諌めてくれる人が村にはいたのでしょうか。僕はこの話を聞いた時に、頭の中で想像した少年はずっと一人ぼっち、誰も彼を直接怒ったりもしなかったし、嘘をつく彼にだれも近寄ろうとはしなかった。本当に一人ぼっちだった。
だから彼は余計にねじ曲がり、その寂しさから「嘘をついてかまってもらいたい」と思ったのではないでしょうか。
でも、大人たちは彼の嘘に対して「巻き込まれた」「嘘をつかれた」「嘘つきの悪い奴だ」「迷惑だ」「変な奴だから関わらんとこ」などといった感情しか持たず、彼に対して無関心だった。
このままいくと、彼がどういう大人に育ってしまうのかという想像を働かした大人はいなかったのだろうか?そんなはずはない、「親の顔が見てみたい」と思った人もいただろうし、「ろくなもんには育たんぞ!」と怒りした人もいただろう。
でもそれはそう思っただけで実際には誰も彼を助けることは無かった。
これは村全体で彼を見殺しにしたのと同じ意味ではないかと思います。
少年は、当然、後悔する時が訪れますが、それは何も命を失う時と=ではなくてもいいハズなのです。
運が悪かったと言えばそれまでですが、周りの大人たちが、一度目で諌めていたら狼少年は二度という事は無かったでしょう。
また彼を根本的にいい方向に(強制でも)導いてやろうと言う気概のある大人が居たら、本当に狼が来た時でも彼を叱りに出てきたでしょう。
今の世の中は正しく村人たちと同じですが…僕だって同じ穴のムジナですが…
狼少年が狼少年にならないようにしてあげるのが大人の役目なのではないかな…とは思えるようにはなりました。
だから、ダメなものは駄目だという勇気は忘れないようにしたい。
言えなかった時もその悔しさを忘れないようにしたい。注意できなかった自分を恥ずかしく思う気持ちを大切にしたい。注意してきた人に対して申し訳なく思う心を大切にしたい。
羽目を外してしまった時はそんな自分を情けないと思う心を大切にしたいと思います。
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