みんなの●●
最近、会社で『Fさんはみんなの兄貴ですね』と言われました。
別に大した言葉では無いですし、そんな風に言われることを悪く感じたりもしないし、むしろちょっと嬉しかったりもするのですが。
みんなの●●という表現が、ちょっとだけ昔のショックを思い起こさせます。
何度かこのブログにも記事にしたことがあるのですが、 『みんなのF』と言われると、=器用貧乏と言われているような気がするのです。
それは、言ってみれば、考えすぎでしかないのも、よく分かっているのですが。 その言葉を言われた当時『じゃあどうすればいいねん!』というどうしようもなさを感じた言葉でもあって、結局結論も出ていない事もあって、やはり心の片隅をつつく何かを感じてしまうのです。 一人では無く、複数人複数回にわたって言われた経験があります。
若い時と言えば恋愛が中心なので、やっぱり、好きな人や恋人に言われるときついものがありますよね。
今日は休みだったので、昔のキャンパスノートを引っ張り出して、といっても、すぐに出せるところにあるのですが、それで、それを言われた時の日記を読んだのですが… 過去のそういうのって、読むべきものではないですね…一瞬でその時の感情に引き戻された思いです。 やっぱ『どうすればよかってん…』と思ってしまいましたし…
つまりは、交際を申し込んだ→返事は保留のまま何度かデートした→答えが… 『F君ってみんなのF君って感じやし…』 です。
どういう意味か、今でも真意は分かりませんが、だから交際はできないと言われました。 自分なりに考えてみましたが、やっぱり良くは分かりません。 その時に『どういう意味』か聞いたけど、曖昧だったような気がします。少なくとも自分が納得できる理由では無かったような…?
数年前まで覚えていたのに、今となっては忘れてしまいました。それで良かったのかもしれませんが…
それからですね『みんなのF』という言葉を聞く度にちょっと切なく感じるようになったのは。 恐らく、自分の中での結論が宙ぶらりんだからだろうと思います。 どうすればよかったのか。そもそもどういう意味で言われたのか分かりませんよね。
はっきり言って学生時代にそんなみんなからモテた事なんてさっぱりありませんからね。 高校の時の彼女はそれを誇らしく思ったと言っていたと書いてあります。果たして、これを書いた時の僕の心境はどんなものだったのでしょう。
確かにそんなような事を言っていた記憶はあるのに、数年前これを読んだ時には覚えていたはずなのに、今となっては全っ然思い出せないのは何故なんでしょうね。
当時の僕が出した結論らしきものは、みんなから頼られる事が嬉しくて、あちこちに首を突っ込んだ結果の事か、誰に頼まれても嫌な気がしない。むしろ誇らしく思う自分の性格が悪いのか、それとも、イイカッコしたいと取れる一面が嫌なのか、当時の僕は、『道化師』とか『ピエロ』という言葉をよく使っています。
そういう風に相手は見ていたのではないか?便利屋、都合のいいやつ。そういう奴として見られていたのか。どちらにせよ。『僕なら解決できるハズ』とか思って自ら突っ込んだ『お節介』も少なくなかったと思うから。
『自分の事もちゃんとできないくせに』と思われての言葉だったのかもしれません。
自分の事だとやる気が出ないんだから仕方がないですよね。と今の自分なら開き直るでしょうが…
他の事を大切にして、肝心な自分の事をおろそかにするのはやっぱり器用貧乏なのでしょうね。 当時の僕と、やっぱりそんなに意見は変わりません。
でも一つ分かった事ですが。忘れた記憶の日記って、意味ないですね。多少なりとも思い出しますが、それだけです。
むしろショックの方がでかくて…文章も何か適当でへこむし…青臭くてバカで読んでられない感じが何とももどかしく。当然他人になど見せる事も出来ず。
確かに自分が書いたもので、これまで記憶にある部分は、ネタにしてきたこともあったけど、それでも記憶にない部分は、本当に自分が書いたものかどうかまで、疑いたくなるようなバカさ加減を感じます。
なので、このノート達は、次の廃品回収に何事も無かったように出そうと思います。一番新しいノートも共に… 中学から続く日記たちですが…どうも最近、自分の頭の中で『必要ない記憶』と認識されてしまったのかもしれません。 それならそれで、これから起こる新しい事を記憶するまでです。 記憶にも賞味期限があって、それが切れただけという事でしょう。 これからは、器用貧乏上等で行こう。
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