擦れ違は人の業
人と人とはすれ違うものですね。
よくも悪くも思ってなくても、悪いようにしか感じなかったり、逆に悪く思ってるのに、相手はそんな事考えもしなかったり。
他人の事なんて全く分からないものです。
その分からない心が、恐怖に感じる事があったり、逆に、分かった気になって怒りを感じたり。主観と客観の交差こそがコミュニケーション何だろうと思います。
昔から、ディスカッションやディベートといったコミュニケーションはものすごく得意で、特にディベート、人の前で発表する事に置いては、誰にも負けない自信がありました。
僕の経験上、ディスカッションやディベートで最も重要視されることは、自分の言いたい事を伝える事ではありません。
最も重要な事は、その相手を知る事、相手の気持ちを可能な限り考える事です。
こんな事書いてしまっていいのかどうか分かりませんが…
この重要な事は実はどのコミュニケーションでも大切な事だったりしますが…
対ディベートに対しては、広い意味で人心掌握が必要になってきます。
要するに相手の立場に立たないと、自分の主張なんて通せないって事です。
対立する意見であれば尚更です。
対立すると言う一点だけで、真っ向から向かってくる人も少なくありません。
真っ向から向かってくる相手はまだやりやすいのですが、相手が強者の場合はななめから切り込んで来るので、やりにくい。
ディベートのテクニック的な話はいいとして…
相手を知る事。というのは、そんな簡単にできる事ではありませんが、大筋は誰も変わりませんので、その中で、さまざまな角度から選択肢を考えて置く事が大切です。
そして、ここからが自分流ですが…
実は人間にはいくつかのタイプがあって、過去に自分が接触した人と似た人は、概ね同じ考えを持っている事が多いのです。『●●に似た人』という人はやはり●●と似た考えを持っていたりします。
昔から僕が「あの人って▲▲に似てるよな…」というと、「え?どこが?目がおかしいんとちゃうか?」みたいな事をずっと言われてきました。
が、僕が言っているのは見た目の話では無くて、「しぐさ」や「癖」や「話し方」「声」というものを見ていたので、一言に「似てる」と言っても、実は違うのです。
そのうちに『自分が似てると思うところ』と『他人が似てると思うところ』が違う事に気が付きました。
みんな見た目の話をしてるって事に気が付いたのは、小学生高学年になってからでしたね。
それまでは、僕の目がやっぱりおかしいのかと思っていました。
後にそれがディベートやディスカッションに活かされるなんて、引いては今日において、自分のコミュニケーションの主となる武器になろうとは、これっぽっちも思っていませんでした。
僕が人の特徴をとらえた『モノマネ』がうまかったり、しぐさを覚えてたりするのには、実はそういう理由があるんですよ。
もう一つは、相手との呼吸を合わせる事ですが。実はこの話全体が逸れてしまっているので、それは、また機会があればという事で。
どれほど、ディベートやディスカッションに自信があったとしても、コミュニケーション自体をとれなくては何の意味もなかったりします。
話をしないから、すれ違う。
他人どうしはどんなに親しくても他人ですからね。もっと言えば、親子だろうが兄弟だろうが、脳みそがつながってる訳じゃないですからね。
オトンやオカンとは会話らしきものはほとんどしていませんし。僕の方から、分かり合おうとしていませんし…いや、分かり合えない事を分かっていると言った方が正確かな。
家族の話はどうでもいいんですが…いや、家族ですら分からないのに、他人なんてもっと分からないと言うべきでしょうかね。
だからこそコミュニケーションは必要なんですね。
コミュニケーションの方法をいくら磨いても駄目なんですよ。
コミュニケーションの手段を持たなくては。
それでも人はすれ違う。
すれ違いが時に誤解を生み、裏切りを生み、世の中を暗澹たるものに変えてしまう。
ホントはいい人が多いハズなのに。
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