考え方
今日は3.11ですね、東北の震災から3年の月日が経過しました。運よく僕たちの土地は、弱震程度で震災には遭いませんでした。震災に遭われた方々の一日も早い復興と、犠牲になられた方のご冥福をお祈りします。
震災のあった日になって、思う事が多いのですが。
人間の一生なんて、儚いものだという事を考えてしまう事があります。
だからこそ一生懸命に生きなくてはいけない。例え儚く終わったとしても、それまでは、太く強く。力いっぱいに…
それが健康に生まれ育った人間の第一にすべきことです。
間違ってもいいし、後悔してもいいんじゃないでしょうか。
…とまあ、きれいごとはきれいごととして。
自身の問題として、自分を粗末にしてしまう事をどう克服すればいいのかが分かりません。
それが恐らく自分の悩み何だろうと思います。
自分が生きて行くうえで、当然ある程度の保身は必要だし、何も自己犠牲をして生きてきたとも思っていません。
充分に自分なりに楽しく生きてきたとも思っていますが。
自分の為に何かをするとなると、とたんに力が湧かないし、適当でもいいと思う。どうやったら自分のためにと思ってテンションを上げるのかが分からない。
それだけならまだいいのですが、僕の為にと思って何かをしてもらう事も遠慮したく思ってしまいます。
もちろん、僕の為にと、してもらう事は、涙が出る程に嬉しいし、すごく助かる。
でも根底に『僕なんかの為に時間を割くのはもったいないから、僕にかまわず、自分の為に動いて欲しい』と思ってしまう。
それには僕の中で人を信じていないという部分も、少なからずあって…いや信じたくない・心を許したくないというのが強いかもしれません。
心を許したって、いざという時には大丈夫?の声掛け一つしてくれないのが他人です。
まして、一肌脱ごうなどと思う事などないでしょう。
でも、それは当たり前の事です。他人が困っていようと、悩んでいようと自分の事が第一なのは普通の人です。それが当たり前です。一肌脱ぐ方がどうにかしている。助けを求める方がどうにかしている。
心底そう思います。なのに僕は時として、そういう損得勘定抜きで動いてしまいます。自分が多少痛くったって、良くなればいいやんと思って動くときがあります。だから、その辺りの価値観が理解できない部分が多くあって、それが分からない時は、他人に自分と同じ価値観をきせようとしてしまいました。
今は僕は僕の価値観では動きますが、それを他人に着せたりはしません。あくまで自分の中でだけの事で、自分以外には自分以外の人の一般的な価値観です。
僕にとって心を許すとは自分用の価値観で相手を見るという基準の事なんだろうと思います。だけどそんな人はめったにいるもんじゃない。という事は、今まで嫌というほどに味わって知ってきました。
困った時に助けてくれる他人などいない。というのが結論です。
若い時分はそんなら、初めから僕に近づくな、寄ってくるな。話しかけるな。と思いました。
そんな僕が、他人を助ける事ができる考え方が一つだけあって。それが、自分の価値を下げる方法です。
いざという時助けてもらえなくても、裏切られたと思っても、それでも自分は他人にそうしたくなくて、力になってあげたいと思い続けることができる方法です。
いつしか価値の低い自分の事など放っておいて欲しいと思うようになりましたし、自分の事より優先すべきものが沢山あると思うようになりました。
失敗は自分のせい、成功は他人のもの。その方がうまくまわると分かりましたし。
でも、この考え方の先にあるものは…洗剤の詰め替え用の袋のような運命をたどるのではないのか…という恐怖が時々心をよぎる事があります。
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