注文の多い料理店て…
宮沢賢治で有名な「注文の多い料理店」ですが。
簡単な話なように感じますが。僕は、すごく恐怖な話です…いや、内容がではなく、解釈がという意味です。
あらすじを言うと。
ボンボンの二人の狩人が、猛犬をつれて山に狩にきたけど。その日に限って全然狩れない。てか獲物がいない。
そのうち暗くなってきた。だから山を降りようとしたのですが、どうにも道に迷ったらしくどちらに行けばいいか分からない。
更に雰囲気は怪しくなってきた。ふと見ると、洋風の料理屋があった。猛犬二匹は恐怖のあまり死んでしまった。
それでも二人はお金をかけた犬なのに損したぐらいにしか思ってなかった。
疲れた二人は、これ幸いと料理店に入った。「ここは注文の多い料理店です」と書いてあった。
狩人たちは「繁盛してる」と自分たちの都合の良いように判断した。
次にやれ「靴の泥を落とせ」だの「金属類や武器は置いていけ」だの言われるが、それでも狩人たちは「当然だ」とか「丁寧だ」とか想像して盛り上がっていました。
体にクリームや塩を付けろと言われて初めてそこにある危機に気が付きました。
が時既に遅し…もう食われる!!って時に、死んでたハズの猛犬が生き返って助けに来てくれました。
その時の恐怖で彼らの顔はひずんでいましたが。命からがら逃げかえった後もそのひずみは治る事がありませんでした。
という話でした。
この話から、何を学ぶというのでしょう。
ボンボン狩人たちはそこにある危機に気が付かず、度重なる怪しい事も自分たちの都合の良いように解釈して。命が危なくなる本当の直前になってようやく気が付いた絶体絶命になって。命を軽んじて、見限っていた犬に命を助けられる。助かっても彼らの心に刻まれた。
というのが僕の解釈ですが…そうなると、この解釈でいいのだろうか。
だとしたら。こんなに恐ろしい事はないのではないでしょうか…
これって現代日本の抱える問題そのものなんじゃないのか?
それを、何十年も前に問題提起していたというのか?
いや、それとも、何十年も前からこんな状態だったと言うのだろうか。どっちにしろ恐怖です。
はっきり言って僕らは、自分に影響がないところ、いや多少影響があったとしても、自分に被害がなければ、物事のほとんどが「対岸の火事」であって、それが、実は近所で起こっていても同じようになってて…本当は裏の家まで迫ってても、まだ自分ちじゃなくて。
家の二階が燃えてても、「消防が来てくれるだろ?」ぐらいにしか感じてなくて。一階まで火が来て、火が回って、出られなくなって…近所の人が助けに来てもらって命からがら救出される。
って感じですよね。
本質的にあの頃から変わってないのかもしれないですね。
いや、それが良くない事だろうとは思いつつも、自分の事ではないと思っているのだろうと思います。
僕だってそうですからね
そういう事に警鐘を鳴らす作品なのか。
日本人が変わってない(むしろ悪くなってる)事への恐怖。本質を正確にとらえ過ぎている作者に恐怖。
そういう作品ですよね、これって。
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